平成23年7月
聞法とは 私の「考え」の物差しが
教えによって問い返されるということ (池田勇諦)
最近は仏教ブームと言われ、本屋に行くと、仏教に関する書物が沢山並んでいるのを目にします。そして、その中には、「生活に役立つ仏教」や、「幸せが訪れる教え」など、思わず手に取りたくなるような見出しの本も多くあります。しかし、ある先生から厳しいお言葉をいただきました。それは、「仏法が生活に役立つものであれば、それは仏法とは言わない。」ということです。役立つ、役立たない、幸せになれる、なれないという思いは、全て自分の「考え」、「物差し」であり、そんな自分の思いの中だけで解決するような教えは仏教ではない、ということを厳しく言われたのです。
確かに法話を聴聞すると、今まで自分が気付かなかったことや、なるほど、と頷くことがよくあります。しかし、私たちは今月の掲示板の言葉のように、聞法して、「私の考えの物差しが問い返される」ということがあるでしょうか。反対に、私たちの「考え」「物差し」の中に仏法を取り入れ、自分の都合に合わせた聞法をして満足していないでしょうか。そうであるならば、たとえその時悩んでいたことが解消されたとしても、その場限りの教えとなり、そこからまた別の悩みが生じてくる、その繰り返しです。
仏法は自分を写し出す鏡であると言われています。そうであれば、仏法が生活に役立つことはないでしょう。また、自分を写し出すものが仏法ならば、幸せが訪れるということも考えられません。だったら何の役にも立たないじゃないか、と思う私の根性を写し出す教えが仏法なのです。現実に身を置くと、どうしても自分中心で物事を考えてしまいます。だからこそ、自分の都合に合わせて満足する私に、「あなたはそれでいいのですか?」と常に問いかけていただく場が聞法の場なのです。住職が、法話の中で、「今は話を聞いて頷いているけれど、本堂を出て日常に戻った瞬間から、もう今の話は忘れていますよ。」と話していました。やはり、自分の「考え」「物差し」を問い返す聞法の場がなければ、どこまでも自分中心であり続ける私の姿は見えてこないのです。そういう私だからこそ、聞法の御縁を大切にしていかなければなりません。
(深草 教子)