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快適な事 便利な事ばかりを追い続けていると いつの間にか不自由になる 重くなった「からだ」を見ればよく分る 「自然」からの逆襲だ (平野 修)

平成24年6月

快適な事 便利な事ばかりを追い続けていると いつの間にか不自由になる 重くなった「からだ」を見ればよく分る「自然」からの逆襲だ (平野 修)

 もうしばらくすると、蒸し暑い夏がやってきます。震災前から節電という言葉は何度も聞いてきましたが、震災後はその言葉の意味を深く考えるようになりました。ただ電気代を安く済ませるだけでなく、周りの自然や環境に配慮した生活がこれからの大きな課題になってきているのです。

 「世の中が便利になって一番困っているのは 実は人間なんです」という浅田正作さんの言葉があります。人間の知恵が作り出したものによって、人間自身が苦しめられるということを、私たちは震災を通して改めて考えさせられたのではないでしょうか。

 津波にのみ込まれた土地は、全てが流されても、少しずつ時間をかけて自然に戻っていきます。しかし、人間が作り出した放射能によって汚染された土地は、回復の目処が立たないのが現状です。現に苦しんでいる、困っている人々がたくさんいらっしゃる中で、それでも原発を再開するという方針をどう受け止めればいいのでしょうか。

 当に、今月の掲示板の「重くなった「からだ」をみればよく分る」という言葉通りではないでしょうか。今現在の快適さ、便利さから逃れられず、その環境に支配されている人間の姿を、「重くなった「からだ」」という言葉が表現しています。そして、仏教ではこのような人間の姿を、「餓鬼」や「畜生」という言葉で教えられています。

 「餓鬼」とは、何を手に入れても、いくら自分の思い通りになっても満足できない姿。「畜生」とは、周りの環境に支配され、主体性を失い、何かが起こった時の原因を外にもっていく姿です。

 確かに、快適さ、便利さを求めながら、その代償として失われた自然、環境に対しては、後ろめたさはあるものの、まだ自分にとっては遠いことのような思いと、今の快適さを手放せないという欲求がどうしてもあります。しかし、何かが起こって不自由さを強いられると、その原因を外に向けてしまうのです。そこには、自分を問うということはありません。

 原発の問題も、新聞やテレビを見るときは深刻そうに見ていても、結局は他人事です。危険が自分の身に迫ってこようものなら、様々な意見や反発が飛び交うのです。そこには、このような現状になったのは、私自身にも責任があるのだという自覚はどこにもありません。どこに責任があるのか、誰に責任をとってもらうのかという犯人捜しばかりをしていると、いつまでも問題は解決しないどころか、一番大切な、自分の在り方を見つめ直すということができなくなってしまいます。

 「自然からの逆襲」がなければ、「重くなった「からだ」」に気付くことができないのが人間です。「餓鬼」、「畜生」の身を生きている私であるということを、震災や、今問われている自然破壊の現状を通して教えられているのです。この夏をどう過ごすのか、「重くなった「からだ」」とどう向き合うのか、まだ先のことと思わず、今考えなければなりません。

深草 教子

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