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あなたのなかの ほとけさまが わたしのなかの ほとけさまに 微笑みかける (祖父江 文宏)

         あなたのなかの

         ほとけさまが

        わたしのなかの

        ほとけさまに

        微笑みかける

           祖父江 文宏

 この言葉を残された祖父江文宏さんは、長年、児童養護施設「暁学園」の園長を勤められた方です。祖父江さんは子供を尊重し、「子供」と言わず、「小さい人」と呼んでおられたそうです。体を張って虐待をうける子供を保護してこられた、その姿勢は子供たちに伝わり、子供たちから親しみをこめて「園長すけ」と呼ばれていたとも聞いています。この掲示板の言葉は、その祖父江さんの姿勢をつらぬく芯のようなものではないかと思います。

 この言葉を見たときに私が思い起こしたのは、『仏説大無量寿経』にある「仏仏相念」という言葉でした。この「仏仏相念」という言葉は釈尊を、仏弟子阿難が光と仰ぎ、仏と仰ぐこころがおこったところに語られている言葉です。阿難は釈尊の高弟で釈尊が亡くなるまで常に傍につかえて話を聞いておられたため、「多聞第一」と呼ばれた方ですが、「未離欲」とも呼ばれ、情が深いために、なかなか目醒めることができなかったとも伝えられます。

 『仏説大無量寿経』では、釈尊はその阿難に対して、阿弥陀如来の本願の教えを説かれます。そこで阿難は「ほとけさま」としての釈尊と、「ほとけさま」とならしめている仏法と出会い、その仏法に共に深くうなずく無数の人々に出会っていくことになります。釈尊も法に出会い「ほとけさま」となられたのです。ですから釈尊はその法を説くことができるのですが、阿難に対してその法を説くのは、自分と同じように苦悩する衆生に、苦悩の本は自我意識、「自分の都合でえらび、きらい、みすてるこころ」であることを知らせ、「自分も他者も、えらばず、きらわず、みすてずに生きよ」という阿弥陀如来の本願の教えこそ真実だと知らせんがためです。

 「仏仏相念」という言葉は「仏と仏とが相念じる」世界、「あなたのなかにも仏になりたいというこころがある」という本願のこころに互いににうなずき、尊敬しあえる世界です。それに対して私たちの「我が思いの世界」は、閉鎖的で、恨み、蔑みばかりで、人を光り輝くように見れる世界ではありません。この掲示板の言葉で大切なのは、「あなたのなかの ほとけさまが」と、「わたし」ではなく、「あなた」からはたらきかける「微笑み」があるのだというところです。

 私事ですが、近頃、四ヶ月になった息子の弘樹がよく笑いかけてくれるようになりました。この「微笑み」というはたらきは、かたくなな「わたし」の思い計らいを破り、私に対しての無条件の信頼を表しておるように思います。

                               (深草誓弥)

 

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