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人は迂闊にも思っている 「自力で生きている」と。 他力の信心とは 「生かされている自分」と 「生かしてくださる仏」に出遇うことである

人は迂闊にも思っている 「自力で生きている」と。

他力の信心とは 「生かされている自分」と 

「生かしてくださる仏」に出遇うことである


 今月の掲示板の言葉にふれて、先生から教えていただいた言葉を思い起こしました。

「近代の人間は、自分というものがまずそれだけで在って、それから自分の生活が始まると思っている。そしてその自分の生の幸福を、その内容の充実を求めてやみません。」
             (『人間の「原点」とは何か』 滝沢克己)

 滝沢先生はキリスト教徒ですが、私たちが抱えている問題の根をいいあてておられます。「自分というものがまずそれだけで在る」、私たちは、日ごろ自分というものがまずこちら側にあって、その自分のむこう側に世界があり、そこに他の人々が居て、そこでいろいろな物事が起こっているし、また、むこう側に自分の人生をおいて眺めています。

 こちら側で「まずそれだけで在る」としている自分こそが、自力のこころに生きる自分です。その自分は、よきもので、正しいものであることを思い込んで疑いません。ですから、自分のむこう側にいる他者は、その思いにかなっているものならば、認めて友とよびますが、自分の思いを満たさない、あるいは役に立たない者は、追い払うか居ても居ないことにします。自分の人生も、その思いにかなわなければ、「こんなはずではなかった」といわざるを得ません。

 私たちは事実、「いま、ここ」に生きているにもかかわらず、私たちは事実と思いを対立させて、「ここではない、今ではない」と事実に背を向け、自分の思い通りになる世界を、「自力で生きている」自分の居場所を求めるというかたちで迷っているのです。

 掲示板の言葉にある「迂闊」とは、私たちは誰もが安心しておれる居場所を求め、苦労するのですが、その求めが「自分というものがまずそれだけで在る」とする自力のこころから起こる限り、かえって自分の生きる場所を見失わせていることを知らずにいることを教えてあるのだと思います。

 私たちは、思いにかなわない自分を見捨て、思い通りにならない場所は牢獄のような不当な場所として感ぜずにおれない自力のこころを、よりどころに生きています。しかし、その自力のこころから、見捨てられ、居ても居ないものにされてしまうような自分でも、事実、いま、ここに生きています。苛立ちしか感じない、思いにそぐわない場所でも、そこにいる私に声をかける人がいます。

 「他力の信心」とは、私たちが求めている本来の願いに深くうなずく心です。我が思いを中心にして生きて、あたかも牢獄を逃れるごとく事実からの逃避を試みる私に、阿弥陀仏は「あなたはそこにいる。そこがあなたの場所だ」と呼びかけます。

 「生かしてくださる仏」とは、自己中心的な我が思いしか持ち合わせていない私をあわれみ、悲しみ、真実に生かそうとする阿弥陀仏です。その仏に大悲されている私が「生かされている自分」ではないでしょうか。念じたもう仏を念ずる。そこに、事実の自分を自分とする人生が始まります。

                                                                      深草誓弥

 

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