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過ちが人間を決めるのではなく 過ちの後が人間を決めるのです 東井義雄師

過ちが人間を決めるのではなく 過ちの後が人間を決めるのです    東井義雄師


 「いいことをした人(因)は、いい目にあう、善い人になる(果)」「過ちを犯した人(因)は、悪い目にあう、悪い人になる(果)」このように私たちは知らず知らず、「いいことをしたらいいことがおこる」と考えています。この考え方を善因善果、悪因悪果といいますが、仏道の因果の教えではありません。しかし、私自身この考えに染まっていることを感じます。

 とくに子供に接しているときに「ちゃんとしとったら、いいことあるよ」とか、「悪いことする子は、嫌な目にあうよ」という言葉で出てきます。良いことをしたらほめられて、賞が与えられます。悪いことをすると怒られて罰が与えられます。私たちの世間を支えている善悪の原理です。しかし、よくよく考えなければならないのは、善いことをしても、善い結果がついてくるとは限りません。善いことをして、善い結果が付いてくるのは、善い縁に巡り合ったからです。

 この世のことを仏教では娑婆(しゃば)と教えています。これはインドのサハーという言葉の音を写した言葉で、意味を取って訳をされたものは堪忍土(かんにんど)とよばれます。意味は「耐え忍ばないといけない世界、思うようにならない世界」です。善いことをしたら、善いことが起こるという世界でなくて、なんでも起こってくるのがこの世界だと、この世を言い当てた言葉です。ですから何が起こってくるかは誰にもわからないのです。

 例えば、ひとたび自然災害が起これば、善いことをしようと心がける人、何にも思っていない人。信仰をもっている人、いない人、祈願していた人、していない人、平等に被災します。厳しいことですが、何が起こってくるかわからないという状況は変えられません。そして、その何が起こってくるかわからない世界と同じで、状況次第で私の心も何が飛び出してくるかわかりません。

 例えば、どちらかが避けないと通れない狭い道に車で入っていって、対向車が自分よりも先に避けてくれると、「申し訳ない」「ありがとう」という気持ちが起きますが、逆に避けるそぶりもなく、こちらに来ると腹が立ってきて、絶対に譲りたくないような心が出てきます。私たちは状況次第、出遇った物事で行動がかわります。善いことをしようと思って善いことをする、悪いことをしようと思って悪いことするのではなくて、状況、縁に随うのです。

 今月の言葉の、前半にある「過ちが人間を決める」という言葉の裏には、「気を付けてさえいれば、人間は過ちを犯さずに生きれる。過ちを犯す人間は、日ごろのこころがけがなっていなかった」という人間観、世界観があるのでしょう。

 仏教は「因はこれ善悪、果はこれ無記」と教えられます。起こってきた結果は、苦楽であって、善でもないし悪でもない。私たち一人一人がその起こってきたことをどう受け止めるかを問題にします。例えば、人を傷つけてしまったという過ちを、罪悪感、苦として受け止めるならば、そのことを恥じるがゆえに、その何が飛び出してくるかわからない私のこころを照らし出す、仏法に教えられていこうという歩みがはじまることになるでしょう。

 消してしまいたい過去の過ちも、そのことが自分を大切なことに目覚めさせる出来事に変えていくかどうかは、私たちがそのことをどう受け取るかで決まるのだと思います。   (深草誓弥) 平成29年2月

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