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食わねば死ぬ 緊急の課題 食っても死ぬ 永遠の問題

食わねば死ぬ 緊急の課題 食っても死ぬ 永遠の問題

 一時期、無人島でのサバイバルや秘境から生還する様子を収めた動画に夢中になっていたことがあります。限られた環境の中で、どのように一日を過ごし、生き延びていくのかを見るのはとても興味深く、特に火起こしの方法や食料の確保、雨風をしのぐ住まいづくりなど、サバイバルに必要な技術や知恵に強く惹かれました。そうした動画では、まず「食」を確保し、休息をとれる「住まい」を整え、寒さや害虫から身を守るための「衣類」を用意するという流れが基本となっています。まさに、人が生きる上で欠かせない「衣・食・住」の確保そのものです。

 これは、私たちの日常生活でも同様で、衣・食・住を整えることは生活の基盤であり、緊急時や災害時にも真っ先に取り組むべき課題です。最近の"米騒動"では、安い米を求めてスーパーの前に長蛇の列ができるという光景が話題になりました。そうした姿を目の当たりにすると、私たちの「食」への関心や、その重要性を改めて実感させられます。

 「生きる」ためには「食べる」ことが欠かせません。しかし、「食べても死ぬ」という現実からは逃れることができません。今月の言葉は、この相反する二つの事実を抱えながら、私たちはいかに生きるべきかを問いかけています。どれだけ食べても、どれだけ健康に気を遣い、努力して生きたとしても、人はやがて死を迎えます。死を避けることは誰にもできません。お釈迦様のお悟りも、この「老・病・死」という人生の現実に正面から向き合われたことがきっかけとなって、「無常」の道理を深く悟られたと伝えられています。

 私たちは、「何のために生まれ、何のために生き、死んだらどうなるのか」「人生の目的とは何か」といった根本的な問いを、人生の中で立ち止まり、見つめ直す必要があります。そして「死とどう向き合うか」という大きな問題は、阿弥陀仏の本願に気づくための大切な問いでもあるのです。死という避けられない事実を通してこそ、「人生の意味」「生きる意味」を仏法から問われ、深く見つめ直すことが求められているのです。

 加賀の三羽ガラスと称された高光大船師に、次のようなエピソードが残されています。ある時、両親に寺参りを勧められても耳を貸さなかった若者が、高光大船師に「仏法とは何ですか」と尋ねると、師は「仏法とは鉄砲の反対だ」と答えました。「鉄砲は生きている者を殺すが、仏法は死んでいる者を生かすものだ」というのです。若者が「棺桶の中の者を生かすのか」と問うと、「あれは遺体。お前のような者を死んでいる者というのだ」と言います。若者が「自分は生きている」と手足を動かすと、「それは動いているだけで、生きているのではない。機関車に石炭を放り込めば、定められたレールの上を走り出す。あれは"動いている"のであって、"生きている"のではない。お前も三度のご飯を放り込んでやると、習慣という定められたレールの上をカタコトカタコト走り出す。それもまた、動いているだけで、生きているのではない」と返されたそうです。この言葉をきっかけに、若者は仏法を聴くようになったといいます。

 ここでの「死んでいる者」とは、外見上は生きているように見えても、何のために生きているのか、人生の意味を知らず、気づきのないまま過ごしている人のことを指します。高光師にとって「生きている」とは、単に肉体が動いている状態ではなく、仏法に目覚めているかどうかが重要なのです。仏法とは、「終わりのある人生を、あなたはどう生きるのか」という問いへの目覚めを促すものです。そして仏法は、この「終わり(死)」から目を逸らすのではなく、むしろ正面から見つめることを勧めています。

 たしかに「生きるために食べる」ことは大事です。しかし、高光師の言葉を借りれば、それは「生きる」ためではなく、ただ「動く」ための燃料補給にすぎないのかもしれません。食べることだけに時間を費やしていないか? 食べても死ぬ命だけれども、本当に「今を生きている」のか? その事を問われていると感じました。 令和7年6月 貢清春

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