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作(な)されたものを知ることは 作(な)すことへ参加すること

作(な)されたものを知ることは
作(な)すことへ参加すること

 毎年七月に、福浄寺では作上がり(さくあがり)法要を勤めてきています。私は入寺するまで、この「作上がり」という名称の法要を知りませんでした。例年六月に寺周辺の地区では田植えが行われるなど農繁期です。六月は年間行事としての寺の法要が行われてきていませんので、田植えが終わり、ひと段落をしたところで、「さぁ、寺に参ろう」、「念仏申して、念仏のいわれを聞いていこう」という心でこの法要は勤められてきたのではないかと思います。

 仏教では「恩」(おん)という言葉を大切にしています。この恩という言葉のもとになっているといわれるのが、サンスクリット語の「クリタ(kṛta)」です。「作(な)されたる」、「作されたるもの」という意味があるそうです。ですから「恩」とは、私を生かすために「作されたる」恵みを指すのでしょう。私に「作されたるもの」を知り、「作されたる」ことによって育てられた力を上げて、自ら「作す」ことに参加していく。「作上がり」という法要の名には、「知恩」と「報徳」の願いが込められているのではないかと思うのです。

 あるところで目にしたのですが、欧米にはこの「恩」という概念がないそうです。もちろん他の人から何かしてもらった時、その具体的な行為に対して「ありがとう」という言葉はあるそうですが、そこに深い恩を感じる、背景を顧みるというような恩の感覚はないそうです。アメリカでは世代間の断絶ということをいかにして解消するかという課題に対して、日本人のもつ「恩」の概念が大切ではないかということで、ローマ字でそのまま、「ON」と表記して、恩の感覚や心を研究している学者がいるそうです。

 さらに思い起こすのは「食べ物様には 仏がござる 拝んで食べなされ」という言葉を残された宇野正一氏の言葉です。正一氏の祖父の口癖は「お米粒には仏がござる」で、こぼしたご飯粒も水で洗って食べるように育てられたのだそうです。その正一氏が小学生五年生の時、実際に顕微鏡でお米を見てみたが、仏は見えず、学校の先生に尋ねると「それは君のおじいさんの迷信だ。そんなものが米粒の中にいるわけがない」といい、側にいる友だちからも笑われた。とても悔しくて家に帰り、おじいさんに「おじいちゃんは僕に嘘をついたね」と責めたのだそうです。すると祖父は「この罰当たり」といいながら仏壇に向かって泣きだしてしまった。成人した正一氏は、その時の泣いていた祖父の後ろ姿が忘れられないと語られていました。

 あらためて思いますが、現代は目に見える物事、それこそ「それは君のおじいさんの迷信だ。そんなものが米粒の中にいるわけがない」と語った学校の先生のような物の見方しか出来なくなっているように感じます。もちろん私も含めてです。目には見えないけれども食べ物には私を生かすはたらきがある。そのはたらきそのものを正一氏の祖父は仏と呼んだのでしょう。

 私自身がこの世に父母を縁として、いのちを恵まれ、数えきれないほどの他のいのちを犠牲にして生きていること。さらに水、光、空気、大地。あらゆるところに私を生かそうとする「作されたる」はたらきがあること。これらの私を私として在らしめている諸々の恩恵に気付かせる、根源のはたらきそのものが「南無阿弥陀仏」であると親鸞聖人は教えているのではないでしょうか。

 幼い頃から、無数の諸仏の「ナンマンダブツ」の「作されたる」勧めがあって、今ナンマンダブツと「作す」私がいる重大さを、作上がり法要にあらためておもいます。  令和7年 7月 深草誓弥

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