非核非戦
あなたは、どんな「くに」を願いますか?
「悲しいことにぼくには国籍がない」。この言葉は、1997年に発生した神戸連続児童殺傷事件の加害者である少年Aが、犯行声明文として神戸新聞社に送った文章にある一句です。28年前に起きたこの事件のことは、事件をおこした少年Aと私とが同年代であることもあり、強い衝撃とともに記憶されています。
「ぼくには国籍がない」という言葉には、「もしボクが生まれた時からボクのままであれば」という犯行声明文からすると、「ぼくを"ボクのまま"受け入れてくれる国はない」という意味をもつのではないかと思います。「自分の安心する居場所」が見いだせないことは、そのまま「自分が自分自身である」ことができないことにつながるのではないでしょうか。少年Aは、「あなたは、自ら安んずることのできる場、「くに」を見いだしているのか」と問いかけているのだと思います。
浄土は、「清浄仏国土」という言葉があるように、仏の建てた国土です。その国土について浄影寺慧遠がしるした仏教語を解説する論書、『大乗義章』には次のような言葉があります。
「仏国というは、人を摂するところ、これを目(なづ)けて国となす。」
「仏土というは、身を安んずるところ、これを号して土となす。」
ここに「人を摂し」、「身を安んずる」はたらきのあるところを浄土と呼ぶのだと示されます。あらゆる衆生を摂取して捨てない阿弥陀如来の大悲、本願のはたらくところが浄土です。その如来の本願は、「十方衆生」、「生きとし生けるもの」に呼びかけられた本願です。人間だけではなく「諸天、人民、蜎飛蠕動(けんぴねんどう)の類」とあるように、人間だけを特別扱いするのでなく、神々も、人間も、昆虫、ミミズも同じく「衆生」という言葉に包まれています。
ところが人間は、知恵を持つがゆえに「万物の霊長」として振舞ってきました。いつの間にか、他の生きものよりも人間のいのちのみを尊ぶようになりました。人間以外の他のいのちを殺すことに無感覚になりました。そして、繰り返し国と国とが、人と人が、「敵」、「味方」に別れ戦争を繰り返してきたことが象徴するのは、人間が人間を殺すことにも、正義があれば無感覚に、残虐になりうる存在であることです。その戦争の中で、いかに効率よく「味方」に被害を出さないで、大量の「敵」を殺傷できるか。人間が知恵を絞って作り出したのが核兵器です。人間の知恵の闇は深く、愚かです。正義の名のもとに人間が人間を殺し、無感覚になれる戦争の世界を生み、人間だけでなく、他の全てのいのちも滅亡させる核を手に入れるに至りました。「十方衆生」は、いのちの根源的連帯を見失った人間が、今こそ聞かなければならない呼びかけではないでしょうか。
なぜ「国土」、「くに」という言葉で如来の願いが表現されなければならなかったのでしょうか。それは、これまで人間が無始以来、地上に天国を作ろうと企て、くりかえし地獄をつくりだしてきた流転の歴史があるからです。自らが安んずる国を求めては、破れ、破れてもまた求めつづけているのです。人間の知恵ではついに解決を見いだせなかったばかりか、恐怖と不安が蔓延する世界で、人間はさらなる戦争の準備、核兵器の準備をすすめています。相手を恐怖によって支配しようという心の根っこにあるものも、自身が抱える恐怖だとは思いいたらないのです。
阿弥陀如来は因位、法蔵菩薩の時、あらゆる衆生は、誰もが深層では恐怖を抱いていることを智慧の眼によって見抜き、その一切の恐れをいだくものに、大悲心をもって大いなる安らぎをあたえようと願われたと『嘆仏偈』に教え示されます。驚くべきことに久遠の昔より、人間の流転の因は、悲しまれていたのです。まさに悲願であります。私を悲しむ「くに」こそ、浄土です。人間の知恵の闇を明らかにし、破るには、如来の智慧によらなければなりません。怒り、悲しみ、願いを忘れるからこそ、呼び覚まし続ける「非核非戦」という悲願、浄土のはたらきかけによらなければなりません。
大切にしたいことは、「これでいいのか?」という問いを人間の知恵で合理化し、押し殺してしまうのではなく、いのちそのものが発する危険信号として受け止めることです。「あなたは、どんな「くに」を願いますか?」という、いのちそのものの問いかけに対し、あらためて私は、南無阿弥陀仏、念仏を申し浄土を願うものでありたいと応答したいと思います。
令和7年 9月 深草誓弥