私の「おへそ」はお母さんとつながっていた証(あかし)
「私のいのちは私のもの」という幻想を破る大切なもの
私たちはつい、「いのちも人生も、自分の思い通りにしてよい」と考え、まるでいのちを所有しているかのような幻想を抱きがちです。しかし本当はいのちは両親から受け継ぎ、無数のいのちと自然の恵みが重なり合って、いまここに私が生かされています。呼吸ひとつ、食べるものひとつとっても、他のいのちと自然の支えがあってこそ成り立っているのです。まず「与えられたいのち」であるという事実から、私の存在は始まっています。そのことを体の一部として示しているのが「おへそ」なのです。
おへそは、母親を通して自分が生まれた証であり、母もまたその母によって生まれた存在です。その連なりの奥には、数え切れない生命の営みが広がっています。つまり、おへそは「いのちは自分の所有物ではなく、無数の縁の中に生かされている」ことを思い出させる証なのです。ではなぜ、現代の私たちの心には「私のいのちは私のもの」という価値観が根強くあるのでしょうか。
現代人の生き方や価値観を的確に表す言葉として、「今だけ・金だけ・自分だけ」という表現があります。少し厳しい響きがありますが、社会の現実をよく表しています。そしてよく考えると、若者だけではなく、どの世代にもこうした傾向は潜んでいるのではないでしょうか。
「今だけ」とは、過去や未来を顧みず、目先の快適さや満足を優先する姿勢です。たとえ環境に悪影響があっても、今が心地よければ気にしない。短期的な利益を重んじる傾向が強まっています。
「金だけ」とは、人間関係や命の尊さよりも金銭的な損得を判断基準とする価値観です。お金より大切なものを見失うという、ある種の精神的な貧しさがそこにはあるのかもしれません。
「自分だけ」とは、共同体や他者とのつながりよりも、個人の自由や権利を優先する考え方です。「自分のことは自分で」「他人に干渉しない」という個人主義が広まり、「自分さえ良ければいい」という意識が社会全体に浸透しています。
その結果、他者との関係や未来への責任が見えにくくなり、「今・金・自分」という三つの軸だけが強調される社会になってしまいました。しかし、このような価値観に基づく社会に、私たちは本当に満足しているでしょうか。他者や未来とのつながりが希薄になる一方で、孤独感が深まってはいないでしょうか。自分だけの世界に閉じこもり、「仕方なく、ただ与えられた日々をやり過ごすしかない」。そんな状況に追い込まれている。これこそが、現代人の心の風景ではないでしょうか。
親鸞聖人は『教行信証』で、中国の曇鸞大師の言葉を引用しています。
『同一に念仏して別の道なきがゆえに。遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり』(p.282)
阿弥陀仏の救いにあい、同じ念仏を申す者同士は、遠く離れ孤独や悲しみの中にあっても心が通い合う。兄弟姉妹のように深い結びつきを感じ、ひとつの共なるいのちを生きているという意味です。念仏を通して他者と心を通わせ、孤独を超えて共に生きるいのちの尊さを示しています。
仏教の視点から見れば、「私のいのちは私のもの」という考えは大きな誤解です。いのちは自他の縁によって生かされるものであり、自己の所有物ではなく、無数の因縁の中にある存在と説かれます。現代社会の「今だけ・金だけ・自分だけ」という価値観は、いのちのつながりを見失わせ、孤独な生き方へと向かわせます。仏教はその幻想を打ち破り、他者と共に生きる道を私たちに示してくれるのです。
おへそが無い人はいません。おへそは、いのちが本来、つながりの中で与えられてきたという事実を示す大切な証なのです。令和7年10月 貢清春