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宗教なき教育は 賢い悪魔を生む(アーサー・ウェルズリー)

宗教なき教育は 賢い悪魔を生む(アーサー・ウェルズリー)

 今月の掲示板の言葉は、長年にわたり福浄寺報恩講でお話をいただいた伊藤元先生が紹介された言葉を選びました。少し調べると初代ウェリントン公爵のアーサー・ウェルズリーという方の言葉のようです。伊藤先生は「ここでいう悪魔とは、人間の本来性を奪うものです」と教えられました。

 教育という語を調べると、英語ではeducationであり、その語源はラテン語のducere(連れ出す・外に導き出す)という語に由来するのだそうです。ですから教育という言葉は、人間に内在する力を引き出すという意味があるのだといえます。

 しかしながら、今日の教育は「教」、知識を教えることはあっても、「育」、育てられるということが無くなってしまったのではないでしょうか。小学校、中学校、高校と勉強するのは何のためでしょうか。いい大学に進むための手段になってしまっていないでしょうか。挙句、小学校に上がる前から、学力をつけておかなければ、という風潮もあります。果たして学力を、知識を身につけることだけが生きる力につながるでしょうか。

「はぐくむ」という語は、「羽包む」(はぐくむ)という意味があり、親鳥が大きく柔らかな羽で卵を包み込み育てる意味があるようです。親の深い愛情を感じさせる言葉です。親鳥が卵を暖かく包み込み、はぐくむのは、子自らが殻を割り、生まれ出ようとする意欲を支え、子自らが羽ばたいて巣立っていくことを願ってのことでしょう。この世に生まれてきたことを、子ども自身が喜べることを親は願い、はぐくむのではないでしょうか。人間のいのちの奥底に、この世に生まれた意義、生きる喜びを求める心があることを教え育むものが、真の教育だと思うのです。

 伊藤先生はお話の中で、「ものを知ってくると人間は傲慢になります。知らない時は劣等感をもちます。知らない者を下に見るというところから人間の堕落が始まるのです。本人は気がつかないからです。ではものを知らない方がいいかというと、ものを知らないとまた困るのです。知るだけだったら、知らないものを馬鹿にする。こんなことも知らないのかということになるのです。ただ教えられて知識を得るだけ、自らの知性を批判するようなもの、「宗教」に育てられなければ、人間は悪魔となるのです」と語られました。われもひとも、それこそ親と子であっても、ひとしく包み込み、教え育むものに出遇わなければ、賢愚、善悪、優劣の価値観に縛られた生き方しか開かれてきません。

 科学技術の進歩は目覚ましいものがあります。その知恵は豊かな生活を実現しました。しかし、反面で知恵は、人を殺戮する核兵器を生み出し、多くの人間の命を奪いました。知恵ある者の愚かさを、人間を超越したものに教え、育てられなければ、人間は人間の本来性を失い、悪魔になるのです。

 教育の語源に「外に連れ出す」という意味があることは、とても興味深いことです。人は、自分の思いや考えの外に連れ出してもらうようなことが無ければ、結局自分の思い通りになったか、ならないかというような狭い世界で、生き死んでいくしかないのでしょう。

 古くから真宗門徒のあいだでは、お寺に参ること、仏法聴聞のことを「お育てにあずかる」と言い表してきました。仏法を聞くということは、賢い人間になることでも、知識教養にあふれた人間になることではないでしょう。「お育てにあずかる」ということは、自分よりも大きなもの、人間を超えたものに触れて、それこそ、外へ連れ出してもらって、人間の深いところにある願いを教えてもらうことだと思うのです。人は人を超えたものにふれて、はじめて人になるのではないでしょうか。

 かつて信國淳先生が「わかってもわからんでもいいから、お念仏申しなさい。そしてお念仏から育てられなさい」と教えられた言葉を思い起こします。 令和7年11月 深草誓弥

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