口に出入りの 南無阿弥陀仏 正真正銘の 生き如来なり
香樹院徳龍師(江戸時代後期の真宗大谷派の僧)の歌にあるこの言葉は、念仏の本質を端的に示しています。ここで語られる「生き如来」とは、単なる比喩ではなく、私の声となって口から出入りする念仏そのものが阿弥陀如来の姿であり、はたらきであることを表しています。
念仏とは、仏さまの名前(名号)を声に出して称える行です。阿弥陀の慈悲がすべての衆生に至り届くことを願い、誰でも受け取れる「南無阿弥陀仏」という名号を与えられました。私たちがその名号を声として繰り返す(念仏申す)ことで、如来のはたらきが私に届きます。念仏を称えるということは、特別な修行や資格は必要なく、時間や場所、人種や立場を超えて行えるため、阿弥陀の救いはあらゆる人に開かれています。
阿弥陀如来が名号をもって衆生を救おうとされたのは何故かというと、人間は言葉を持ち、声を交わしながら生きる存在だからです。また、言葉によって世界を理解し、他者と関わり、自己を形づくる存在です。私たちは考えたり記憶したりする時にも、言葉や声が必要です。もし阿弥陀如来が黙って見ているだけなら、人間は如来のはたらきを受け取ることができません。だからこそ如来は名号を示し、その名号が「南無阿弥陀仏」という声の響きとなって私たちに届けてくださったのです。私たちは、その声を通して仏さまの呼びかけを聞き取ることが大切です。
親鸞聖人は和讃において次のように詠まれています。
子の母をおもうがごとくにて
衆生仏を憶すれば
現前当来とおからず
如来を拝見うたがわず
子どもが母を思うとき、たとえ母が目の前にいなくても、「お母さん」と呼ぶ声によって母の存在が胸に迫ってくるように感じられます。これと同じように、衆生が仏を憶うとき(念仏申すとき)、仏は未来に待つ存在ではなく、すでに「現前」してくださると聖人は示しています。仏は決して遠いところにおられるのではありません。仏を憶うとき、仏はすでに私のそばにいてくださるのです。念仏とは、如来が生きてはたらいているという証そのものなのです。
現代社会は文字情報が氾濫し、核家族化や生活の多忙さ、デジタル機器の普及によって、親子の声や共同体の声、宗教的な声が失われつつあるという課題に直面しています。しかし声は単なる音ではなく、人と人を結び、存在を確認する力を持っています。声は物理的な音を超えて身体を震わせ、記憶や感動を呼び覚まします。遠く離れた家族の声が心に届けば孤独が和らぎ、互いの存在が確かになるように、その力は人の心を動かし、関係をつなぎ直します。
念仏は私と如来をつなぐ声であり、私たちへの呼びかけです。その呼び声を聞き、応答するとき、表面的なつながりを超えて、存在そのものが受け入れられ、如来や他者と深く結ばれる感覚が芽生えるのです。念仏はその回復を促す具体的な行であり、日々の呼吸のように繰り返すことで、少しずつ実感へと変わっていきます。子どもが「お母さん」と呼んで母の存在を感じるように、私たちが「南無阿弥陀仏」を口にしてその声を聞き取ると、如来は正真正銘の「生き如来」としてそばにいてくださるのです。 令和7年12月 貢清春