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過去をぐちる 未来をわずらう 今がない 幽霊がここにいる

過去をぐちる 未来をわずらう 今がない 幽霊がここにいる

 「恨めしや...」、幽霊が現れるときの"決まり文句"として知られています。この言葉は江戸時代の歌舞伎で幽霊が登場する際の演出として広まり、落語・講談・怪談話を経て、テレビや漫画でも「幽霊の定番セリフ」として定着しました。しかし、幽霊は一体何がそんなに「恨めしい」のでしょうか。

 1月の御正忌報恩講に御出講くださった保々眞量先生が紹介されていましたが、幽霊の姿には三つの特徴があります。①後ろへたなびく長い髪、②前に伸ばしながら力なく垂れた両手、③描かれない足。ご法話の中で熊本のある寺に幽霊の掛け軸があり、見させて頂いたと言うことでした。先生は「この幽霊こそ、私達人間の姿そのもではないか」と教えてくださいました。

 後ろ髪が長いのは、過去への執着・後悔・未練を表します。「後ろ髪を引かれる」という言葉の通り、あの時こうすればよかった、あれは間違いだったのではないか、あいつだけは許せない、こうした思いは、過去という「もう変えられない世界」に心を閉じ込め、それが愚痴となってあふれ出ます。幽霊の長い髪は、過去に囚われて前へ進めない心の姿です。

 両手を前に伸ばしながら垂れ下がっているのは、未来への不安・心配を象徴します。病気になったらどうしよう、仕事は続けられるのか、老後や年金はどうなるのか。未来はまだ来ていないのに、心はすでに不安でいっぱいになります。その将来の不安の重さが、力なく垂れた腕の姿となって現れています。

 腰から下が消えて足が無いということは、現在ただ今を生きていない、地に足がついていないということです。足がないとどこにも立てません。これは、今という現実に立脚できないことを表します。過去に引きずられ、未来に怯え、現在が空洞になる。すると、身はここに有るのに、心がここにいないようになります。

 さらに足が無いということは、よりどころを失った姿だということも表現しています。どこにも身をまかせて寄りかかれず、帰る場所を失い、ただ宙に浮いたままさまよっている。これは、私たちが「自分の思い」だけを頼りに生きようとするときに陥る姿そのものです。幽霊の足が無いと言うことは、「よりどころの喪失」も象徴しているのです。

 その様に、今を失った状態では、やがて「恨み」「つらみ」「ねたみ」といった感情に支配されます。自分の人生が思い通りにならない、他人がうらやましい、一体誰かのせいでこうなったのだ、こうした感情が積み重なります。すると私たちは幽霊の姿となります。「恨めしや...」これは単なる復讐の言葉ではありません。どうして私はこんな目にあわねばならなかったのか、なぜ分かってもらえなかったのか、そのような、行き場のない恨み・悲しみ・嘆きの叫びなのです。

 日本の幽霊が怖いのは、怪物だからではなく、生前の人間の苦しみや無念がそのまま残っている存在として描かれるからです。だから「恨めしや」は怨霊の脅し文句ではなく、救われていない者の心の叫びとも言えるでしょう。つまり、幽霊の怖さとは、私たち自身の心の闇が形になったものなのです。もし幽霊がいるとするならば、それは外にいる霊魂とか、私を脅す何かではなく、私自身と言うべきでしょう。幽霊の絵や形は、私の迷いを照らし出す鏡です。だから幽霊の姿は、私の迷いを見事に表現していると同時に、「あなたは何処を立脚地として生きていますか」という問いかけでもあります。 令和8年2月 貢清春

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