ふりむけば 又咲いている 花三千 仏三千 (司馬遼太郎)
この言葉は、大阪にある司馬遼太郎記念館の石碑「花供養碑」に刻まれた詩です。わずか十数字の中に、大自然のいのちの循環と仏教的世界観が凝縮されています。振り返ってみれば、そこにはまた新しい花が咲いている。その一輪一輪の背後には無数のいのちが咲き、散り、めぐり続けた長い歴史がある。花いのちも仏のはたらきも、尽きることなく私の背後に満ちて決して消えることがない、という意味になるかと思います。
詩の冒頭に置かれた「ふりむけば」という言葉は、単に後ろを見る動作を指しているのではありません。前を向いて歩くとき、目的地や効率に意識を奪われ、周囲の景色や変化に気づけなくなるように、私たちはしばしば前だけを見て生きてしまいます。この姿は、車の運転にもよく似ています。
車を走らせるとき、前方の道路ばかりに集中していると、後方で起きている変化や、左右から近づく車に気づけません。バックミラーやサイドミラーを確認する行為は、周囲で何が起こっているのか、世界を広く捉え直すために欠かせない作業です。安全に走るためには、周囲を見渡す広い視野が必要なのです。
「ふりむけば」という言葉には、この「安全確認」に似た精神的な意味があります。コスパやタイパが重視される時代では、立ち止まることが損のように思え、急がないと置いていかれるような焦りさえ感じます。そんな忙しさの中で、私達は「ふりむく」事が出来なくなっているのかも知れません。人生を前へ前へと急いでいるとき、人は自分の目標や効率に囚われ、背後で静かに咲いているもの、散った花びらの美しさ、誰かの支え、過去の経験の意味に気づくことが出来ません。歩みを止めて振り向くことで、初めて見える世界があります。司馬遼太郎の「ふりむけば」は、まさにこの「立ち止まり、視野を広げる」という行為を象徴しています。人生の運転席に座る私たちは、前へ進むことばかりを重視しがちですが、時には速度を落とし、ミラーを確認し、振り向き、世界の広さを取り戻す必要があります。
続く「又咲いている、花三千」は、いのちのめぐりを象徴しています。「花びらは散っても、花は散らない」という金子大栄先生の言葉がありますが、花は咲いて散っていくけれども、散った花のそばでまた別の花が咲いている。個体としての花びらは散っても、花といういのちの流れは散らない。そのようないのちの循環を、「又」という一文字で表現したのだと思います。「花三千」という言葉には、数えきれないほどの花のいのちが表現され、世界は絶えず変化しながらも、同時に変わらないものがある。散るものの背後には、散らないものがあるのです。
対句として置かれた「仏三千」は、「花の数だけ仏まします」という意味にも読めます。また、仏教には「三千大千世界」という言葉があり、これは「無限に広がる世界」を象徴します。そこにはこの世界に無数の仏の存在があるという響きが感じられます。私より先に命終えていかれた先輩方、浄土に往生された方々が無数に存在し、その姿を花と重ねておられるのでしょう。
しかし、この言葉が示す世界は、単に「亡き人々の数が多い」ということにとどまりません。私たちが気づかぬところで支えてくれた人、励ましてくれた人、あるいは直接会ったことはなくても、私のためにお念仏を称えてくださった人、そうした「諸仏」が、私の背後には数えきれないほどおられるのです。見えないところで私を支えてきた無数の仏。その総体を「仏三千」と読むこともできます。
この詩は、花のいのちを供養する碑に刻まれた言葉であると同時に、私たち自身の生き方への目印でもあります。前だけを見て歩むのではなく、時に立ち止まり、振り向き、広い視野で世界を観じることが必要です。散るものの背後にある「決して散らないもの」に目を向けてみましょう。花も仏も、私たちが見ていないところで、静かに咲き続けている、そういう世界に私達は生きているのです。 令和8年4月 貢清春