ロゴ:福浄寺

トップイメージ1 トップイメージ2 トップイメージ3

たらいで生まれて おけの中まで 何もわからず生きている 時の流れが悲しい 暇つぶし以上に 何をしていますか (小椋佳)

たらいで生まれて おけの中まで 何もわからず生きている
 時の流れが悲しい 暇つぶし以上に 何をしていますか (小椋佳)

 今、中学生の長男はゲームに夢中です。ほおっておくとゲームしかしないので、保護者見守り設定で時間を制限して遊んでもらっています。ある日、決められた時間のゲームを終えた息子から「やることがなくて、暇で暇でしょうがない」と言われました。その日は日曜日で、私は仕事でバタバタと忙しくしていた時だったこともあり、腹が立ったので、「暇なら勉強しなさい」と言葉を投げつけたのでした。

 しかし、後日考えさせられたのです。「暇で何もすることがない」ということは、忙しくしている人からすれば、腹が立つことであり、笑いごとのように感じてしまいますが、人間の根本問題ではないでしょうか。息子からすれば、しなければならないことは沢山あるのだけれども、それらを喜べないし、楽しめないのだと思います。そして退屈な気持ちを埋めるように、気晴らしにゲームをする。しかしゲームができる時間が終わるとまた暇や退屈が襲ってくる。これは、決して子どもの問題ではなく、その人がだらしがないからということから起こる問題ではないように思います。暇、退屈、むなしさ、倦怠感。これらは人として生まれたことに起因する、人間的な問題だと思います。

 「たらいで生まれて おけの中まで 何もわからず生きている 時の流れが悲しい 暇つぶし以上に何をしていますか」という小椋佳さんの歌詞にあらためてドキリとさせられます。これまで、「これこそが私にとっての人生の喜びや支えだ」と思って積み重ねてきたものが独り死んでいかなければならないことの前では、色あせたり、喜べなくなってしまうのでしょう。こうなったら幸せなのだ、と思い通りになることを求めてきたけれども、「おけの中」、つまり死を前にしてはむなしいといわざるをえない。本当にしたいことが見つからないまま、いたずらに時間を埋めた「暇つぶし」でしかなかったのでないか。「暇つぶし以上に何をしていますか」という言葉には、「あなたは真実、自分自身のしたいことが見つかっているだろうか」という問いが内包されているのだと思います。

 暇、退屈、むなしさ、倦怠感が感じられることこそ、人間の証だといってもよいのではないでしょうか。世の中にあふれる様々な娯楽をもってしても、真実に人間の根源的欲求は満たすことができないのだと思います。楽しみの後にむなしさや暇が訪れることは、その楽しみよりももっと大きく、もっと深いもの、確かなものを私たちは求めているということでしょう。

 「生きることが空しいのは 本当にしたいことをしてないからだ」という中川皓三郎先生の言葉を思い起こします。もし暇やむなしさが訪れた時は、すぐに何か楽しいこと、気晴らしを求めないで、暇やむなしさが起こってくることを大事にすべきだとあらためて思います。暇やむなしさは、「あなたが本当にしたいことは何か」という真実からの問いかけだと思います。 令和8年5月 深草誓弥

関連リンク