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どうしてもっと はやく やさしくできなかったのか? 「今」が変わらず これからもずっと続くと 思っていたから (佛光寺標語)

どうしてもっと はやく やさしくできなかったのか?
 「今」が変わらず これからもずっと続くと 思っていたから (佛光寺標語)

 大切な人と死別したあと、考えれば考えるほど後悔がつのります。「どうしてもっとはやく やさしくできなかったのか?」という言葉にはそうした強い後悔や心残り、自分を責めるような気持ちが感じ取れます。死別にさいして沸き起こってくる後悔のこころは、大切な存在であった亡き人をおもうがゆえの感情でもあり、私と亡き人をつなぐ心であるともいえます。まず最初に確かめておきたいのですが、今回この言葉を受けて考えたことは「後悔しないためにはどうすればいいか」や「後悔を乗り越える」というようなことではありません。大切にしたいことは、何故後悔のこころが起こるのか、後悔から知らされることは何かということです。

 「一度しかない人生、後悔はしたくない」という気持ちはどんな人のなかにもあるのではないでしょうか。ですから何らかの理想や目標をもって、後悔のないようにと心がけることもあります。しかし、親しい人、とくに一つ屋根の下に共に暮らす親や子との生活の中に、果たして「後悔が無いように」という意識があるでしょうか。

 愛憎違順と教えられるように、親が子に向ける愛も、その愛に応えない、報われない場合、愛はたちまち変質し憎悪に転じます。愛憎は対極にあるのではなく、裏表です。そのような自己中心的な愛と愛がぶつかりあう中で、常に相手に要求をしているのが私の正直な姿です。まさに「今が変わらず これからもずっと続くと 思っていたから」の言葉の通りです。自分にとって都合のいい「今」が、いつまでも続くと思っているのです。その相手との関係にいつか終わりが訪れることは知っているはずなのですが、それよりも自己中心的な愛が勝るのでしょうか。自分を愛するほどに、やさしくできないのです。

 その親しい者に対する強い思いが、相手の死によって断ち切られたようになってはじめて、親しく縁を結んだ者に心を寄せることができるのかもしれません。わがままをいい、わが思いをぶつけ続けた相手が亡くなると、私の思いは行き場を無くしてしまいます。もうどれだけ要求しても、応えてくれません。その時、後悔の心がわきおこってくるのではないでしょうか。

 後悔は、煩悩と煩悩がぶつかりあう生活を免れない私たちには、必然の事ではないかと思います。むしろ、後悔の心が沸き起こってきたところに、あらためて亡き人の存在を受け止めなおす機会をたまわるのではないでしょうか。やさしくできなかった。もう相手に手が届かない。立ちつくすしかない。仏事は、そのような私たちが、仏からおもわれているということを確かめる時ではないでしょうか。

 かけがえのない恩を受けた亡き人も、その恩を顧みることもなく生きている自分も、ともに如来の摂取不捨の光の中での出会いなおしが願われているのではないでしょうか。私の心に後悔の心が起こるのは、私の日ごろのこころよりも、深いところにある、自分では気付くことのできない、「出会いたい」という願いのあらわれではないかと思うのです。 令和8年7月 深草誓弥

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