世の中は 悪人の懺悔の涙によってうるおされて 善人の驕りによってかわいていく (金子大栄)
いつの時代であったとしても、私たち人間は、自分というものを絶対化し、「尊貴自大」と経典に教えられるように、自分ほど尊いものはないと振舞ってきたのでしょうが、今日ほど人間の自己中心性の闇が露呈している時代はないのではないかと思います。
アメリカのトランプ大統領をめぐるニュースが連日報道されていますが、先日は「慈悲の心を持つように」と諭した大聖堂の主教に対して、トランプ氏が強く反発したというニュースがありました。自らの考えや、思いにそぐわないものは徹底排除し、自分の思考に近いものだけを近くに置いているのでしょうから、おかしいと感じても誰も止めることはできない状態ではないかと危惧します。
それと同時に、そのような「自分は正しい、他は間違っている」という強い思い込みが自らの中にもあること。そして、その正しいと思い込んでいる自分の外に、「あの人は悪人で、この人は善人だ」と勝手に決めている私がいることに気付かされます。「トランプ氏は悪だ」といっている当の私は、「自分は正しい」というところに立っているのです。
そのような近代の闇といえる、自己中心性に対し、問題を提起しているのが夏目漱石の『こころ』です。「私」と名のる小説の語り手である若い学生から、「先生」と慕われていた人物が、ある時、「私」に追求するように語りかけます。
「悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずはありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです。」(夏目漱石『こころ』より)
この言葉は「先生」自身が、自分は「善きもの」、「正しきもの」だと思っていた、その思い込みが、友人を死に追いやるような心をもつ者になって砕け散った、悲鳴のような言葉だったと小説を読み進めると知らされます。「世の中は 悪人の懺悔の涙によってうるおされて」とありますが、懺悔は自己反省ではありません。省みている自分自身が明らかにされなければなりません。悪人は真理の光に照らされて明らかになった姿であり、その姿は「いざという間際に」人を傷つけかねない現実の私です。煩悩に翻弄されて、誰かを傷つけながら生きざるを得ない自分自身に出あうところに、懺悔の涙が流れるのでしょう。親鸞聖人は「煩悩具足のわれら」と語られています。自分で自分の中に沸き起こってくる煩悩をどうすることもできない懺悔の涙のところに、はじめて「われら」といわれる、如来から大悲されている衆生の現実に立つことができます。
「善人の驕りによってかわいていく」、渇きという言葉がもちいられていますが、渇愛という言葉があります。まるでのどが渇いたものが限りなく水を求めるような自分自身に対する執着です。驕り、自分自身を絶対化するということは、同時に帰依すべきものを見失い、自分自身が批判されることが無くなることでもあります。今日の時代社会は、善と善、正義と正義がぶつかり合い、バラバラになっている感覚を持ちます。だからこそ、夏目漱石が『こころ』で問題提起した自己中心性の闇を自分のこととして見つめていきたいと思います。 令和7年 3月 深草誓弥