すべての者は 暴力におびえ すべての者は 死をおそれる 己が身にひきくらべて 殺してはならぬ 殺さしめてはならぬ (釈尊)
今から八十年前の夏、八月六日には広島に、九日には長崎に原子爆弾が投下され、数えきれない命が、何の罪もない人々の生活が、一瞬にして奪われました。この戦争においては、広島・長崎を含め、世界中で数千万もの人命が失われました。その一人ひとりが、私たちと同じく、血を通わせ、家族を愛し、人生を歩んでいた、かけがえのない命であったはずです。しかし、その命が、人間の欲望と無明(むみょう)によって引き起こされた戦争という暴力のもとに、容赦なく断たれたのです。
犠牲となったのは人間だけではありません。山川草木、国土に住むあらゆる命が深く傷つけられました。仏教においては、すべての生命が互いに縁によって結ばれ、共に生かされていると説かれます。そのいのちを破壊する戦争とは、まさに仏の教えに背く事に他なりません。
人間は本来、誰しもが平和を願い、安穏なる暮らしを望んで生きています。しかし現実には、怒りや貪り、無知によって争いや暴力が繰り返され、しばしばその矛先は、もっとも弱き者、何の罪もない人々の命に向けられます。そのような現実を前に、私たちは仏弟子として、いかに生きるべきかを深く問われるのです。
釈尊は、生涯を通して「非暴力(アヒンサー)」の道を説かれました。仏教徒にとって根本となる戒律は「不殺生戒」です。いのちを奪わぬこと、そしてまた、他者にその行為をさせないことを意味します。いのちあるものの苦しみを「己が身に引きくらべ」、傷つけぬこと。それこそが仏の弟子としての基本の姿勢なのです。
「己が身にひきくらべて」という今月の言葉は、相手の苦しみを自分自身のものとして感じよ、という教えです。暴力を受ける恐怖、命を奪われる悲しみ。その痛みを己が身に引き受けることができるならば、私たちはいかなる状況にあっても、殺すことも、殺させることもできないはずです。
しかし現実には、国家や権力は「正義」の名のもとに、戦争という暴力を繰り返してきました。原爆を投下したアメリカのトルーマン大統領は、戦後、テレビ番組の中で「道義的に難しい決断でしたか」と問われると、「そんなことあるわけない。このくらい簡単だったさ」と言い、指をパチンと鳴らした(7月16日、朝日新聞「天声人語」より)といいます。また、長崎への原爆投下の日には、「われわれは戦争の苦しみを早く打ち切るために、また数千人のアメリカの若者の生命を救うために原子爆弾を投下した」と語ったといいます。被爆地で愛する者を失い、今も後遺症に苦しむ人々にとって、その発言は、耐えがたい侮辱と苦痛であったことでしょう。
しかし、こうした原爆投下を正当化する視点は変わりつつあると報じられてます。実際に広島を訪れた外国人約一千人を対象としたアンケートでは、来館者の七割以上が「原爆投下は正当化できない」と回答しています。展示を見たことで「被害は想像以上だった」と考えを改めた人も少なくありませんでした。資料館に展示されている写真や遺品の数々は、見るに耐えがたい痛ましいものです。被爆された方々の苦しみを「己が身にひきくらべて」感じたがゆえに、「正当化できない」と答えたのではないでしょうか。
今なお、地球のどこかで戦争が起こり、テロが起こり、銃声が響いています。人が人を殺し、国家が「敵」を定め、兵士に殺させる。その根底には、他者の痛みを己が身にひきくらべる想像力の欠如があります。だからこそ、釈尊は「殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」と、今を生きる私たちにも呼びかけておられるのです。「戦争をしない国家」「戦争に行かせない社会」を築く責任は、為政者のみならず、私たちもあると思います。いのちの苦しみを、悲しみを、自らのこととして想像できるなら、私たちの歩むべき道はおのずと見えてくるはずです。その仏の教えを胸に、私たちは何を選び、何をよりどころとして生きるのか。今一度、静かに自らに問い直していきたいと思います。 令和7年8月 貢清春